夏の大会が終わった。同時に、翌日から息子の野球部の活動はなくなった。つまり、硬式野球部引退ということだ。
引退翌日から、息子は野球リュックに代わってアウトドアブランドのリュックを背負い、Tシャツに短パンという小学生のようなスタイルで自転車にまたがり、登校していった。そして、引退翌日から「高校球児」ではなく、「受験生」に変わった。
最後の試合。心痛の最後だった。5回まで同点。グランド整備が終了し、終盤の6回。マウンドには息子が立っていた。相手ベンチから聞こえる「待ってたよ、このピッチャー」。どういう意味だろうか?6回。何とか無失点。そして、運命の7回。一球一球なんて覚えていない。ヒットを連続で打たれ、結果4失点。あの4失点が確実に負けにつながった、と誰も直接は言わないが、すべての嘆息が私に向かっている気がした。公式戦であんなに連打され、失点した息子を見るのは初めてだった。6月初旬、ピッチャーライナーが顔面にあたり、骨折したアクシデントから復活したばかりであった。やはり、フィジカル、メンタル双方の復活は難しかったということだろうか。
心痛の最終戦、引退から約1か月。服装や持ち物が変わり、野球をしていた時間のすべてが勉強に変わり、どんどん先に進んでいく息子に対し、親の私は、何だろうか、鉛のような、暗くて重い、鈍い塊を心に抱えているような毎日だった。高校野球はもちろん、プロ野球も視界に入れたくないような、そんな気持ちでいた。もちろん、日々の仕事はそれなりに充実していたし、次に進まないといけないこともいろいろあって、表面的には切り替わっていたのだが。息子が高校野球を引退するときは、もっとスッキリと晴れやかな気持ちになっているものだと思ったのだけどなぁ、と考えてはため息をついた。
そんな折、息子が中学時に所属していたスポ少のOB戦のお誘いがあった。息子は中学校の野球部のほかに、近隣や市内中学校から集まった子たちで構成されるチームで活動していた。中学の部活以外でも野球をしたい、という意識の高い子たちが集まっていたためか、多くは高校でも野球を続け、みな夏の大会を終え、高校野球を引退した三年生である。お誘いを受けた当初は「塾の夏期講習とかぶってるし、いけないよ。」とあっさり断った息子であったが、母たちのライングループ内で、次々と参加表明をするかつてのチームメイトの名をあげるたびに、気持ちが少しずつ傾き、最後は「塾の合間の時間だけでも出ていいか、監督に相談してみる」というまでに変わった。さらに前日の夜、かつてのチームメイトとバッティングセンターで練習したいから車を出してほしい、とまで言い出した。
「よろしくお願いします!」と私の車に一緒に乗り込んだのは、最後の試合で対戦した高校の、まさに投げ合ったピッチャーのNくんであった。Nくんと息子は同じ中学である。いや、それだけではなく、小学校のチームでは息子がピッチャー、彼がキャッチャー、バッテリーを組んでいた。高校に入り、それぞれの野球部での活動が当然ながら忙しく、当人同士が話したり、一緒に行動したりするのも本当に久しぶりのはずだ。Nくんを車に乗せて移動するなんて、本当に中学校か、小学校以来である。車のなかでよく言いあいをしたり、時には喧嘩をしたり、あとは歌を歌ったりしてたなぁ・・・しみじみと思い出す。バッティングセンターに向かう車中、息子とNくんは本当に小学生の時のように、いろいろと話をはじめた。でも、少し違うかな。二人とも、もう無駄に張り合ったり、相手をけなしたりなんてしない。お互いをちょっと気遣うというか、リスペクトしているというか。ハンドルを握りながら、ふたりの会話を耳にして、ちょっとほろっときた。Nくんと息子はお互いピッチャーとして、あぁそうだ、秋の大会ではふたりともエースナンバーを背負って対戦したこともあったなぁ。ふたりは高校生活で対戦した試合のこと、それぞれのチームのこと、なんかとっても淡々と、でも楽しげに語りあっている。
話が進むなかで、Nくんは息子の高校と対戦した試合、息子にとっては最後の試合の時の話を始めた。「うちの監督がさ、『〇高(息子の高校)には、とにかくS(息子の名前)の対策をしっかりしないと勝てない』といって練習してたんだよ。ピッチングマシンを遅くして(ここはお笑いポイント。息子は速球派ではない左腕)、あとは似たような変化球を投げさせてひたすら対策したんだ。お前がケガをしているという情報も入ってたけど、『必ず、どの時点かで投げてくるはずだ』って。だから、お前が6回だっけ、マウンドに上がった時に、うちのベンチは『よっしゃー、きたぞ。練習したとおりに行けー。』って盛り上がったんだ。」息子は、たいして驚きもせずに、「そうだったのか」と笑った。運転していて、もっぱら聞き役に徹していた私も笑った。そして言った。「そんなわざわざ対策して、練習してもらっていたなんて、光栄なことだったね」と。
バッティングセンターに到着し、Nくんと息子と、同じく小学校からのチームメイトだったFくんは、まるで小学生のように一緒にストラックアウトを競ったり、アイスを食べたりしていた。息子の姿が見えなくなって目で探す私を察知して、「あ、Sはあそこにいますよ。」なんてきちんと教えてくれるのは、昔も今も変わらずNくんだ。高校野球をしていなかったFくんだけがホームランを打ち、景品をもらったのも、なんだか、彼ららしい。全てが懐かしくて、微笑ましくて、そんな彼らに癒された夏の夜であった。
最後の試合。6回に息子が登板したとき、相手チームのベンチから聞こえてきた声。「待ってたよー、このピッチャー」あれは聞き間違いではなかった。ネガティブな気持ちで振り返っては、「お、しょぼいピッチャーでてきたぞ、まってたぞ、よし、打ってやろうじゃん」という意味だったのかなぁ、なんて考えていた。しかし、Nくんが語ってくれたことは違った。そうか、相手チームは息子を恐れて対策していたんだ。高校生活の最後、すべてを懸けた一戦に向けて、必死に練習したなかに「息子対策」があったとは!十分練習し、対策した、あとは対戦を待つのみ、という盛り上がりの最中、我が息子がマウンドに立ったのだ。「待ってたよ。このピッチャー。十分打ち崩す練習した!練習どおりやれば、打てる、行け」という意味だったのだ。ケガから復帰したばかりの息子の球が甘かったこともあるだろう。しかし、それ以上に、真摯に対策と練習を重ねた相手校が見事にヒットを打ったのだ。Nくんが、楽しそうに語った話のなかに思いがけないリアルがあった。
「今日はありがとうございました!」と爽やかな笑顔で去っていった長身のNくんの後ろ姿を見送りつつ、得体のしれない重いかたまりが私の心からすうっと消えていくのを感じた。そして、小学校、中学校、高校と11年と数か月の間、つきあってきた息子の野球生活と追っかけ母生活とが本当に終わったことを穏やかに実感したのであった。