昨年末、大学時代の友人たちと会った。大学入学後、同じクラスだったことが縁で繋がった友人たちだ。おいしいね、と言って食事を共にし、誰かの話題に笑ったり、驚いたり。懐かしい昔話が出ることもある。年月は経っても、変わらぬ空気感に安心する。考えてみると、私自身大学生の子どもがいる年齢なのだから、友人たちと同じキャンパスで過ごした時間は四半世紀を軽く超えている。前回(5,6年前だったろうか)会って楽しく過ごして帰宅したあとに、ふと気づいたらそれぞれの現在の暮らしについて情報を持っていないことに気づいた。情報、とは例えばパートナーの有無や子どもの有無など。そういう話題は出なかった。お互い、仕事の話はしたので、「仕事の現在地」は何となくわかった。その頃の私は子どもの保護者同士のつきあいが多かった時期で、煩わしさも少し抱えていたので、大学の友との語らいは何だか不思議で、ふと一人笑ってしまった。いいね、こういうのも。
そして、今回。盛り上がったのは、本と新聞とデジタルの話。本当に必要な情報は無料で、しかもネットからは得られないよね、という話。これは「得られる?」という疑問ではなく、「得られるわけないよね。」との確認と共感だ。ネットでは個人好みの情報(検索履歴や購入履歴、閲覧履歴)が集まってくる。ニュースも然り。ソースがしっかりした情報は無料では得られない。共感と確認で盛り上がる背景には、「ニュースはネットで十分でしょ。」「書籍ではなく、ネットで情報を得る時代」とのたまう同僚や上司、部下の存在に失望した共有体験がある。
自分が必要としていない情報のなかに実は探しもののヒントがあるかもしれない、新たな興味との出会いが存在しているかもしれない。IT業界で仕事をする友人の一人は定期的にPCの検索履歴や個人情報をリセットするという。同様の文脈で、「様々な情報が目に飛び込むしかけが施されている新聞紙面って意義あるものだよね」という方向に話がいくと、新聞社に勤務する友人はなるほど!と顔を輝かせていた。大学図書館に勤務する友人は書籍と身体性というテーマで研究を考えていると話していた。図書館のデジタル化にも取り組んできた友人があえて紙の本、書籍に意義を見出している点に私は興味を抱いた。
ひとり息子が他県の大学へ進学したことで子育ての強制終了を迎え、私は読書に多くの時間を割けるようになった。以前は研究、論文執筆に役立ちそうな本を嗅ぎ分けては手に取り、意味のある本、ない本に区分しながら効率的に「必要な情報」をインプットしてきたように思う。気がつくと、「学術的で有用」なメリットのある本を選ぶ習慣がついていた。しかし、今、私はこうした呪縛から逃れて純粋に読書を楽しんでいる。エッセイや対談、小説の面白さよ。そして、「自分のテーマと関係ない、必要としていなかった情報」の中に私はたくさんのヒントを発見している。探しものは、探しているものの中よりも、むしろ自身が遠ざけていた探していなかったもののなかにあったのかもしれない。
例えば、昨日読了したあの小説。あ、長くなったのでこれは次回に。セレンディピティにまつわる話として。