セレンディピティ ~オトナの「児童書」~

「セレンディピティ」とは、偶然と才気によって、さがしてもいなかったものを発見すること。

『セレンディップの三人の王子たち』を読む

『セレンディップの三人の王子たち~ペルシアのおとぎ話』(竹内慶夫編訳,偕成社2006)を読んだ。「セレンディピティ」は、18世紀の半ば,この物語を読んだイギリス人文筆家ホリス・ウォルホール伯爵の造語だという。物語はもともとペルシア語で書かれ、その後イタリア語に訳され1557年にベニスで出版された。1557年といえば,日本は戦国時代,徳川家康16歳、築山殿と結婚した頃とされている。また、この話には実在した王が登場していることから推察すると、5世紀頃のペルシア、王子たちはスリランカの出身(ペルシア語でセレンディップ)のようだ。

どこか、懐かしい感じがする表紙。

この本は児童に良書を、と発刊された偕成社文庫の一冊だ。裏表紙には「全国図書館協議会選定」「日本子どもの本研究会選定」とある。智恵と品格を兼ね備えた3人の王子の冒険譚,王子たちは最後はそれぞれ立派な為政者となる良い話。ラクダや化け物が登場するなど、少しエキゾチックでドキドキする要素も魅力的だ。

有名な「ラクダの話」から

 ここでは、「セレンディピティ」の語のもととなったとされる有名な「ラクダの話」がある。「serendipity」を辞書で引くと、辞書にも載っている。ここでは私がいちばんわかりやすい!と感じた要約を引用させていただくことにする。

セレンディップの3人の王子が異国に旅に出ます。ある皇帝の国に入ったとき、行方不明になった1頭のラクダを探すキャラバンの隊長に出会います。隊長は3人に、はぐれたラクダを見なかったか尋ねます。3人の王子はそのラクダを見てもいないのに、特徴を具体的に言い当てるのです。

  「そのラクダは片目でしょう。」

  「歯が一本抜けていますね。」

  「足が不自由なラクダです。」

 その答えがあまりに正確なので、隊長はこの3人が自分のラクダを盗んだものとして誤解して皇帝に訴え出ます。別のところでラクダが見つかって、冤罪は無事晴れました。皇帝は3人に誤り、どうして見てもいないラクダの特徴をあてられたのかと尋ねました。その答えはこのようなものでした。

  「道を歩いていて、片側の草だけが食べられているのに気づきました。その反対側の草の方が良質だったにも関わらず。」

  「道沿いの草が一足ごとに、ラクダの歯ほぼ一本分の幅で食べ残されていました。」

  「地面に残されていた足跡からは、一本の足をひきずっていることがわかりました。」

 皇帝はこの3人の知恵に驚いて、格別のもてなしをしました。3人の王子は、歩いているときに偶然見かけたことに注意を向けて。ラクダの特徴を知ったのです。

『エスノグラフィー入門〈現場〉を質的研究する』(小田博志 2010,p95)

「『セレンディピティ』って簡単にいうと何?」という乱暴な質問をぶつけた際、夫が開いて差し出したのが文化人類学者の小田博志氏の本だった。質的研究の方法論を説いている名著で、「6.1現場に入る基本姿勢」の一つ「偶然を活かす」の説で紹介されているコラムからの抜粋だ。「ラクダの話」は様々なところで、いろいろな立場の方が紹介されているが、小田氏のコラムは過不足なく要点を引き出し、紹介していて、私が読んだなかで最も伝わる書き方だと思う。

それにしても何と賢い王子たち!「偶然と才気によって、さがしてもいなかったものを発見する」意味の「セレンディピティ」が誕生したエピソードとして説得力がある。

 『セレンディップの三人の王子たち』1冊のなかで、この「ラクダの話」は全12章のうちの第2章に登場する。その後、当地ベーラン帝国皇帝から大変気に入られ、厚い信頼を受けてベーラン帝国の抱える深い問題の解決をする。「さがしていなかったものの発見」はラクダだけではない。旅の途中で出会う理解者、難問を解くカギ、人生の良きパートナー…。全編が旅する王子たちの偶然と才気によって「さがしてもいなかったもの」との発見によって開けていく。

 勇気と智恵が切り開く冒険物語は全編をとおして信頼や慈愛に支えられている。十年前に出会っていたら…小学生時代の息子にも紹介したかった!もっと小さい頃だったら…毎晩一章ずつ読み聞かせするのも楽しかったろうなぁ…。とはいえ、オトナの私が読んでも面白い話だった。オトナだからこその読み方もある。例えば時代、文化の違いは王と王女との関係にも表れる。一夫多妻制により、王には複数の王女がいるのだが、そのことを忘れていると途中で人間関係を見失ったりする。また、非の打ち所がない立派な王が病んだり、窮地に陥ったりする原因が色恋沙汰だったりする。そこはさりげなく婉曲的に、(たぶん)児童の読者には気づかれないように描かれているのだけど、洋の東西を問わず人間臭い権力者像に「しょうがないねぇ…」とふと笑ってしまう。

わが家の胡蝶蘭。無事に開花しました。つぼみか弾けるように咲く様子、可愛いのです!

王子たちが賢い理由

さて、さがしてもいなかったラクダを見事言い当てた王子たちは本当に賢くて感動する。そして、今回、『セレンディップの三人の王子たち』を全編を読み、私は賢さの秘密を知ってしまった!王子たちの紹介、彼らの生育環境と旅に出たいきさつを紹介したい。(私が要約)

むかし、東方の国セレンディップに品格を備え、賢い三人の王子がいた。王子たち父、偉大な王は三人を自分の後継として期待し、でき得る限り高い教育を授けた。最も優れた賢人たちを集め,息子たちへの教育を乞い願い,莫大な年金と宿舎を与えた。教育期間中は邪魔をしてはならないと誰も教育の場には近寄らない。優秀な教師たちは王国から受けた名誉に感激し、忠実に義務を果たし、王子たちも熱心に勉強し、道徳、政治、一般教養を身に着けた。王子たちの身に着けた教養と品格に父 王も感激したものの、あえて「おまえたちにはまだ欠けているものがある。他国を旅して探してこい!」と旅に出すのだ。まさに「かわいい子には旅をさせよ」。

分析すると…。父・王が立派であること。教育の力を信じていること。未来の人材育成にお金を惜しまないこと。教師も王の思いと待遇に応え、王子たちも熱心に学ぶ。良い教育が生まれる要素が全て入っているではないか!

王子たちは、なぜセレンディピティを?

『セレンディップの三人の王子たち』読後しみじみと感じたのは「王子たちは偶然に良いものと出会ったのではない!出会うべくして出会った」ということだ。まず、王子たちの旅は気まぐれつれづれ旅でないこと。「自分たちに足りないものを探せ」と命じられての旅、途中からは「我が国の難問を解決してくれ」という「偉大な目的を持つ旅」だったことだ。そして、何よりも最高の教育を受けた王子たちは誰よりも賢い。そして、勇敢だ。知識があり、知識を用いて解決するための視点や機転を持ち、高いコミュニケーション力を持つ。こ、これは現在の教育が目標とするものではないだろうか!

雪の庭を見に行ったら…まさかのクリスマスローズの開花を発見!さがしてもいなかった嬉しい発見でした。

翻訳者は何と!鉱物学者 

 本編を読了後、この物語の翻訳者である竹内慶夫氏の解説(あとがき)を読んだ。14ページある。発行年2006年。児童の読み手を配慮して、解説にもふりがなが付してある。オトナの読者は、物語にプラスして竹内氏の「解説」こそをおすすめしたい。竹内慶夫氏は鉱物学者、専門は結晶学。理学博士。東京大学名誉教授。肩書と、『セレンディップの三人の王子たち』の翻訳者であることは当初結びつかなかった。しかし、解説を読むと竹内氏がこの物語の翻訳者となる経緯に納得し、感動する。竹内氏は鉱物学の研究者である一方で,教育者であった。教授として次世代育成と未来の科学技術の発見に「セレンディピティ」がもたらすものの意義を見出したのだ。「セレンディピティ」の語を造ったホリス・ウォルホール伯爵が実際に読んだ原典に限りなく近い物語を入手したい、と専門の研究の傍ら,世界の図書館で原典を探し続け、ようやく手にしての翻訳であったことも語られている。竹内氏が最初に「セレンディピティ」の語と出会って40年後の翻訳である。

竹内氏の言葉より

セレンディピティ的発見の鍵は、偶然を生かすことができるかどうかで、それは実験や観察をする人たちの心がまえしだいです。なにごとかに集中する意識があって、周囲のできごとを注意ぶかく観察し、それに瞬間的に無心に反応する心がつねにそなわっていることが必要です。先入観は禁物です。これがセレンディピティ的発見の必要条件とすれば、気づいた偶然を解析する能力と根性をもっていることが十分条件といえるでしょう。

このことは、心がまえひとつで、私たちも日常生活のなかでセレンディピティに遭遇しても不思議でないことを意味しています。自分をみがき、いま述べたセレンディピティ的発見の必要条件にかなった性格さえ身につければ、だれでもセレンディピティを体験できるはずです。

セレンディピティを体験するために

『セレンディップの三人の王子たち』(と、訳者の解説)から学んだこと

「セレンディピティ」を体験するためには、

大きな目標(すぐに答えはでない何かを探し求めること)を持つこと。探しつづけること。

出会う準備をしていること。出会いを見逃さないこと。

出会いを形にする能力と我慢強さを持っていること。

 訳者である竹内氏は「セレンディピティ」の語源と意味を求めて原典にあたり,分析する姿勢は、まさに研究者だ。簡単には手にできない大きな理想を求め続ける人、出会いに気づける、生かせる準備をしている人こそが、さがしていなかった価値あるものと出会えるのだろう。私は竹内氏が訳した物語しか読んでいないが、冒頭の「教育と教育者を重んじ,お金を惜しまなかった王」の話は,自然科学,研究全般を取り巻く現状へのアイロニーを呈している気がしてならない。

 先日、職員室の私の机の上に置いてあった学年だよりを眺めた。中身は、一度読んでいる。タイトルを目にしてハッとする。「Serendipities セレンディピティ―ズ」!作成した方に「あれ、このタイトル…?」と聞く。そう、確か、何か月か前にも聞いた。「いいタイトルですね!」と言った記憶も蘇ってきた。…灯台下暗し。見ているようで何も見ていない。こんな私がセレンディピティを体験する日はまだ遠いだろう。身近なところに、きらりと光る原石に気づける。そんな自分に、私はなりたい。

丁寧に育てられた黒豆茶をいただきました。香ばしくて、癒されるワイン色。