太宰治『津軽』を読む

津軽訪問と太宰の再読

 8月初旬に津軽の地、弘前、鰺ヶ沢を訪れた。弘前を訪れるのは4度目である。まだまだ初心者であるが、訪れる度に新たな魅力を発見する。私の住む仙台は都市化とともに「魅力的で古いもの」を見出し難くなっているのに対し、弘前は弘前城天守、城下の街並み、明治大正の洋風建築が生活風景に溶け込む「歴史と文化とを体感できる町」だと思う。そして、津軽といえば太宰治である。生家は「斜陽館」で有名な金木町だが、旧制高校は弘前(現・弘前大学)に通い、弘前で暮らしている。過去3度、弘前を訪れた際は事務的な用事等があり、太宰治に思いを馳せるところまでは至らなかったが、今回は帰宅後、どうしても読みたくなり、太宰作品を何篇か再読した。なかでも『津軽』がじんわりと心に響いたので、記録に残そうと思う。

たとえば、弘前公園前のスターバックス。旧陸軍師団長官舎として建築された登録有形文化財の店舗とのこと。

弘前へ…息子の顔を見に

8月初旬、土日を含む3日間、仙台から車で4時間。息子が大学生活を送る弘前へ。息子の顔を見に行く旅であった。「夏休みは仙台に帰らないかも」という衝撃のメッセージを息子から受け取ったのは6月頃か!友人とロードバイクで日本一周するという。(このご時世に!)と驚いたものの、その時点ではコロナを巡る世情も落ち着きを見せており、(大学生の夏休みならではの企画、それもよかろう)と考えた。離れた地で一人暮らしをする息子とはLINEでの不定期、かつ極めて短文のメッセージのやりとりのみで繋がってきた。「生きてる?」→「うん」「夏休みいつ帰る?」→「帰んないかも」のような。こちらとしても「元気?」「大学どう?」のような漠然とした広い問いかけはやめて(無駄だと分かった)、こちらが必要とする答えを導くための具体的なごく短い問いかけを投げかけるようになった。「生きて元気にしている」ことが確認できればよい、「連絡がないのは元気の証」と達観し、「夏休みには帰省するだろうし、その時に生活を共にすればいろいろと見えてくるだろう」などと楽観的であろうとした。しかし!「夏、帰省しない」となると話は別である。表情、顔色や肌の調子、体型、髪型、服装・・・外観から得られる種々のノンバーバルなメッセージ、何気ない会話からの言語情報は「息子の今」を伺い知るために貴重である。でき得るならば「充実した大学生活を送っている」と安心したい、という親の贅沢な願いが満たされると嬉しい・・・。かくして、「帰らない宣言をした息子の顔を見に」弘前へと向かったのである。

お城と美術館と博物館と、そして海へ

弘前初心者としては、まずは弘前城である。弘前公園を散策し、めざすは天守へ。車で弘前公園のお堀の周りを走っている時から「何となく広そうだな」とは思ってはいたものの、いざ徒歩で巡るとなると広い、広い!堂々たる門をくぐり、森林を散策しながら、ようやく天守が見えてくるイメージだった。ブログを書いている現在は「冷夏」「秋雨」を窓の外に感じているが、弘前滞在時は気温30度超えの真夏日。真っ青な空に蝉の声、天守の窓に切り取られた岩木山が絵画のように美しかった。

弘前公園内にある博物館も訪れた。残念ながら今年も中止となってしまった「ねぶた」「ねぷた」の展示があり、その美しさに見入った。ねぷたと弘前の歴史も知ることができる貴重な資料を目にすることができた。

藤田記念庭園へ。こちらは2度目。猛暑に耐え切れず、庭の見学はさらりと。前回満席のため入れなかった大正時代の洋館「大正浪漫喫茶室」でアップルパイをいただく。市内名店のアップルパイがメニューにあり、「アップルパイの食べ比べ」ができる。じっくりと写真を眺め、スイーツ好きの経験と勘とで一つを選び注文する。

れんが倉庫美術館。築100年の歴史を持つ煉瓦倉庫をリノベーションした建物である。美術館の中に足を踏み入れて驚く。陰翳のなかに浮かび上がる展示、光のアート・・・いずれも「りんご」を感じるアートたちであった。りんごにまつわる古今東西の文学者や哲学者のことば、作品の一部が刻まれ、照らされている。りんごを共感覚で体感する不思議な空間であった。美術館の隣の倉庫は壁面にシードルのタンクが並ぶ吹き抜けのカフェである。スタイリッシュで落ち着ける、そして美味しい空間を楽しんだ。

 

 そして、弘前から車で40分ほどだろうか。分け入っても分け入ってもりんご畑、という風情のあるロードを車でかき分けつつ進み、鰺ヶ沢へ。最初に訪れた3月初旬、弘前の魚介類がひときわ美味であることに感動したが、その産地は鰺ヶ沢。道の駅には新鮮な魚介類のほかに、スイカやメロンが並んでいた。レジに向かう人々が抱えているのは多くはスイカであった。大きなメロンの値段に驚き(安い!)、メロンを一つ買った。清算の際、レジの方が「今日は食べないでくださいね。今日はまだ。」と食べごろは数日後であることを念押しする。夫によると「一夜干しのイカ」が美味しいのだそうだが、仙台に帰るまでの時間を考慮して今回はあきらめた。

肝心の目的は・・・

 

今回の弘前訪問の目的は「息子の顔を見に行く」ことであった。こちらはあっさり書くことにする。息子とは着いた当日の夕飯をともにした。目的は果たせた。が、これだけだった笑。当日「大学の授業があるから晩飯だけにしてほしい」とメッセージをよこした息子は、まさにその通り、約束の時間に店に現れ、食後、「じゃ」と立ち上がり、店の外に消えた。ま、いいか。というか、いろいろ話せてよかった。短時間であっても顔を突き合わせて対話すること、空間を共にすることで、想像した以上に充実した大学生活を送っていることがよくわかった。息子にはもうこちらの世界があるのだな、ということも実感した。そして、何と我々が仙台に戻る数日後、仙台に帰ってくることも判明した。夏休み期間といえど、テストや病院での実習があるのだという。日本一周の旅は未来へ持ち越されることになったそうだ。

 

帰宅後、太宰治の作品を再読

今回の弘前訪問の目的は「息子」であったため、あらかじめ訪問場所は決めていなかった。その他実現したい計画は「前回逃した『大正浪漫喫茶室』のアップルパイ食べ比べ」ぐらいだったか。あとは行き当たりばったりの旅路であった。鰺ヶ沢行きを決めたのも「車で何となく走っているうちに」という感じであった。いざ、弘前を去るという段になり、地図を眺めて突然行きたくなったのが太宰治の生家「斜陽館」だったが、こちらは次回の楽しみにとっておこうということになった。そうとなると太宰治の作品のあれこれを急に読みたくなった。最後に読んだのはいつ頃だったろう。5年前、いやもっと前、10年前だろうか。なかでも『津軽』を無性に読みたくなった。

仙台に帰り、自宅の書棚を探すも『津軽』はなく、取り寄せることにする。(「ポチる」)そうして手にした薄い文庫本を読み進めながら、実は読んだことがなかったのでは、と思い至る。「『津軽』に描かれた子守の『たけ』との交流」などというフレーズが頭の中に浮かんではいたものの、これは学生時代に文学系の講義で聞きかじったことだったのかもしれない。あるいは高校の教科書に掲載されている『富岳百景』の教材研究にあたり、太宰の作品紹介を目にして自然とインプットされていたのかも・・・と考える。

私はなぜか『津軽』を小説だと思っていたのだが、今回はエッセイだと感じた。(一般には自伝的小説とされている)これぞ読んでいない証である。本の裏表紙に書いてある紹介文を借りるが、「昭和19年5月、津軽風土記の執筆依頼を受けた太宰は、三週間かけて津軽地方を一周した。」とある。実家がある金木町を含め、旧制中学時代を過ごした青森、旧制高校時代の弘前・・・時に友人知人宅を訪れて交流しての、津軽の風土と津軽人気質とが描かれている。幼少期・青年期の思い出と昭和19年当時の訪問時のできごとに加えて文献、資料を引用しながら綴られたこの文章はエッセイというよりも、まさに「昭和版津軽風土記・太宰編」と呼んだほうがいいのかもしれない。

何といっても昭和19年(戦中である!)東京から訪れる太宰治が遠慮しながらも所望する酒は「配給品」だった。それでも行く先々で知人宅や旅館では酒やご馳走が振舞われるのだ。太宰が津軽の地で交流する旧知の人々は素朴であたたかだ。今や明らかになっている彼の生涯年表を思い浮かべながら読むと、当然故郷の人々は彼の放蕩ぶりを知っているはずだが冷笑や非難の色は見いだせない。私自身、東北人であるから、東北の人を「素朴であたたか」というステレオタイプに当てはめるつもりはない。

太宰自身が作中、何度となく「津軽人気質」に触れているところ、総括しようとしているところがあるが、私が特に惹かれた部分を以下、抜粋したい。(抜粋箇所は「」で示している。)

疾風怒涛の如き接待は津軽人の愛情の表現なのである。」

これは太宰がSさんという知人宅訪問した後での総括コメントである。

「Sさんのお家へ行って、その津軽人の本性を暴露した熱狂的な接待振りには、同じ津軽人の私でさえ少しめんくらった。Sさんは、お家に入るなり、たてつづけに奥さんに用事を言いつけるのである。『おい、東京のお客さんを連れて来たぞ。とうとう連れて来たぞ。これが、そのれいの太宰って人なんだ。挨拶をせんかい。早く出てきて拝んだらよかろう。ついでに、酒だ。いや、酒はもう飲んじゃったんだ。リンゴ酒を持ってこい。なんだ、一升しかないのか。少ない!もう二升買ってこい。待て。その縁側にかけてある干鱈むしって、待て、それは金槌でたたいてやわらかくしてから、むしらなくちゃ駄目なものなんだ。待て、そんな手つきじゃいけない、僕がやる。干鱈をたたくには、こんな工合に、こんな工合に、あ、痛え、まあ、こんな工合だ。おい、醤油を持って来い。干鱈には醤油をつけなくちゃ駄目だ。コップが一つ、いや二つ足りない。早く持って来い、待て、この茶飲茶碗でもいいか、さあ、乾盃、乾盃。・・・中略・・・』

この後もSさんの言葉は文庫本1ページ分切れ目なく続く。

Sさんの言葉に登場した食べ物(例えば干鱈、など)に解説を加えつつ、太宰は

「その日のSさんの接待こそ、津軽人の愛情の表現なのである。しかも、生粋の津軽人のそれである。これは私においても、Sさんと全く同様なことがしばしばあるので、遠慮なく言うことが出来るのであるが、友あり遠方より来た場合には、どうしたらいいかわからなくなってしまうのである。ただ胸がわくわくして意味もなく右往左往し、そうして電燈に頭をぶつけて電燈の笠を割ったりした経験さえ私にはある。」

と続ける。

「何やらかやら、家中のもの一切合財持ち出して饗応しても、ただ、お客に閉口させるだけの結果になって、かえって後でそのお客に自分の非礼をお詫びしなければならぬなどということになるのである。ちぎっては投げ、むしっては投げ、取っては投げ、果ては自分の命までも、という愛情の表現は、関東、関西の人たちにはかえって無礼な暴力的なもののように思われ、ついには敬遠ということになるのではあるまいか、と私はSさんによって私自身の宿命を知らされたような気がして、帰る途々、Sさんがなつかしく気の毒でならなかった。津軽人の愛情の表現は、少し水で薄めて服用しなければ、他国の人には無理なところがあるかもしれない」

Sさんのエピソードとその総括、そして太宰の内省が入る部分である。内省は冷静かつ客観的に見えるが、とても人間臭くて微笑ましい。私の心を捉えたのはSさん接待の後日談だ。

「後で聞いたが、Sさんはそれから一週間、その日の卵味噌のことを思い出すと恥ずかしくて酒を飲まずには居られなかったという。ふだんは人一倍はにかみやの、神経の繊細な人らしい。」

とあり、

「これまた津軽人の特徴である。」

と書かれている。

(太宰治『津軽』角川文庫p68~p70)

昭和19年という時代性、太宰治という個人、そしてSさんという一人物の言動から普遍的な「津軽人」を読み取ろうとは思わない。が、ひたすら微笑ましくて好きな部分である。すっかり同じではないけれど、私自身も何かこう、共感できる部分がある気がして。それは東北人だからなのか、人間だからなのかは分からないのだけれど。

先に『津軽』を読んだつもりで実は初めてだったかもしれない、と書いた。たぶん初めてだったろう。弘前、青森、鰺ヶ沢・・・知る地名、訪れたことがある地名が登場する今だからこそこうも親しみを感じるのかもしれない。

『津軽』を読み、これまで以上に人間・太宰治に触れた気がして、『斜陽』『人間失格』『富岳百景』を再読した。こちらは「再読」である。そして、次回こそは「斜陽館」を訪れたいと切に思う。

『津軽』文庫本に添えられた「こぎん刺し」のしおり。前回に訪れた際も惹かれていくつかのしおりを連れて帰ったが、今回訪れた弘前市内の雑貨店「green」さんのこぎん刺しの小物はとてもとても好みの雰囲気だった。店内の雰囲気、お店の方も素敵でまた訪れたい場所の一つである。